夜のプールに忍び込む

無茶苦茶気持ちいいぞ、と誰かが言っていた。
だから、自分もやろうと決めた。
山ごもりからの帰り道、学校のプールに忍び込んで泳いでやろうと浅羽直之は思った。

中学生の時に読んでドはまりしたライトノベル『イリヤの空、UFOの夏』の冒頭である。
主人公である浅羽直之がこの行為に及んだのは中学二年の夏休み最後の日であるが、この作品に多大な影響を受けた私はなにを血迷ったのか高校三年の夏休みも過ぎた9月の中頃に浅羽少年の真似をしようと思い立ったのである。

愉快な部長に振り回されて夏休みを丸ごと山にこもってのUFOの監視に消費した浅羽少年と違い、高校三年の夏休みが明けた私には本当になにもなかった。中学の頃は熱心に打ち込んでいた部活動も高校に上がってからはやる気をなくし後輩から幽霊部長と呼ばれていた。3年が私しかいなかったので部長という事になっていたが、サボりまくっていたので実質2年の副部長がその役目を果たしていたのである。なら学業はというとこれがまた絶望的で、母校が出席日数も単位も足りていなかったはずの私を卒業させてくれたのは何かの間違いか単なる厄介払いだと今でも思っている。周囲が受験だ進学だと夢に向かっている中で夢も希望も持たない私は落ちこぼれていったのである。

これに関して劣悪な家庭環境だなんだと理由を付けたくなる気持ちは今でもあるが、生まれてからそんなことを言っても始まらず、同じ家庭で生まれ育った姉がまともに大学を出ている以上はその要因はとどのつまり本人の資質に他ならない。私のしてきた頑張らないことへの言い訳は、そのまま努力する理由に置き換えらえるのだ。これが私の本心かどうかはさておき、そういうことにしておかないと前に進めないというのも事実なのである。いま、自分と同じ立場にある全少年に向けて言うならばそんなものは親が悪いに決まっており、自分の所為にして徒に劣等感を抱く必要など欠片もありはしない。自己責任だ、もっと不幸な人がいるだというのは、我々のおかれた環境など想像したこともない幸せな人々の一般論と思って聞き流しておけばよろしい。

ただ、これはあくまで自身の経験だが、そんなことにいつまでも縛られていては落ちるところまで落ちてしまう。少なくとも私は家の外で自分の父親以上に理不尽な存在に出会ったことがないし、その父親がなんの冗談か厳しいなどと言っていた社会は私に危害を加えるどころか最低限には手厚く優しい存在だった。なんにせよ生まれた家庭で背負ったハンデなど社会に出てからは言い訳にしかならないし、残念ながら元被虐待児童に対する補助なども聞いたことがない。実に腹立たしい事ではあるが、運が悪かったと思って出来ることならこんな重荷はさっさと捨て去って忘れてしまうほかないのである。

前置きが長くなったが、そんな高校三年生の夏休み明けに将来の展望もなく閉塞感に包まれていた私は「何かが変わるかもしれない」と根拠のない期待をもって夜中のプールに忍び込んだのである。ただし、私の住んでいた田舎には小学校にしかプールがなくそこへ侵入する以外に選択肢はなかったのだった。まともな精神状態であればそんなところへ行っても自分の運命を変える美少女などいるはずもなく、防犯装置が設置されていようものなら不審者として警察のお世話になるだけだとわかろうものだが、当時それなりに追い詰められていた私はそうでもしなければ何も変わらないと信じて疑っていなかったのである。

結果としてもちろん夜の小学校のプールなどで何も起こるはずはなく、それでも私はそれなりに落胆をおぼえてしばしプールサイドに立ち尽くしていた。30も半ばを過ぎたこの歳になってもこの時の自分に掛ける言葉が思いつかない。どうすればこの哀れで愚かな過去の自分を救ってやれるものだろうかと今も真剣に思い悩むことがある。この時にはもう現在の自分に至るルートが出来ていて、もはや手遅れなような気がするし、だったらもっと前に手を掴んで引っ張ってでも逃げるように言ってやればよかったのだろうか。

結局、しばらく立ち尽くしていた私は何も起きはしないこと認め、せっかくだから25メートルのプールを一往復だけしてずぶ濡れのまま家に帰ることにした。すっごく気持ちいいこともなかったし、自分の人生に何かが起きる予感など却って一ミリもなくなった。自分の惨めさを再確認しただけのあの日の帰り道、私は一体なにを思っていたのだろう。それどころかどうして本当にあんな事をしたのかも今では思い出せない。

ただ、今になってこんな事を書きたくなったところを見ると、あの時の私は単に誰かに話を聞いて欲しかっただけなのかもしれない。掛ける言葉も見つからないが、せめてあの頃の自分にそんなことくらいしてやれたらなと思うのだ。

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