鰻を食す

夏といえば鰻ということで、昼食にうな丼を食べにいった。思い返してみれば最後に鰻を食べたのは随分と前になる。去年、一昨年と遡っても該当する記憶に行き着かないことから、ここ数年は食べていなかったと言っても過言ではないだろう。

土用の丑の日を境にスーパーに並ぶ姿を見て鰻を食べたい欲求が高まっていき、抑えきれない衝動となってついに今日という日を迎えたのである。スーパーで買ってもそこそこの値段になるため、今回は店に食べにいくことにした。

店に入ると香ばしい匂いが迎え入れてくれる。派手過ぎず、程よく空腹を刺激する粋な出迎えだ。注文した品は一番安いメニューながら、その装いはうな丼、肝吸い、漬物とシンプルながら完成されている。さっそく山椒を振り掛けて最初の一口を頬張りたいところだが、ここは逸る気持ちを抑えてそのままの鰻を一口味わってみる。

パーフェクトだ。焼きたての香ばしさが口の中に広がり、ふっくらと火の通った身が舌の上でほどけながら溶けていくのがわかる。久しく忘れていた至高の味に私は言葉を失った。ただただ美味い。他に形容する術を私は知らなかった。まさに余人をもって代え難い存在。それこそが鰻を鰻たらしめる所以なのだろう。

現に私はここ数年、鰻に手が出なければ他で済ませようとはしてこなかった。なければもはや諦めるしかないのが鰻なのである。少なくとも私はそう思っている。だからこそ私はこの度、鰻を食するにあたってこれまでにない心構えをもって臨むことにした。

というのも、実は鰻は絶滅が危惧されている生物でもあるというのだ。それを知った上でなぜ食べるのかと聞かれれば、そこに鰻があるからという他ない。私は元農家だ。農業が自然破壊に他ならないことを百も承知しているし、動物が可哀想だから野菜だけを食べるなどと聞いても首を傾げるしかない人間である。現に私は野菜を育てる裏側で数え切れないほどの生物の命を奪ってきた。それに対して良心の呵責を感じたこともない。強大な自然を相手に畑を守る我々はちっぽけな人間でしかない。知り合いのある農家は農業はギャンブルだと言っていた。台風一つ、獣害一つで畑一面が吹っ飛ぶことなど珍しくない。やらなければやられるのだ。

鰻に限らず、何かを口にするというのはその業を背負うということなのだろう。こと此度の私のように食べたいから食べるという姿勢はエゴの誹りを受けても仕方がないことのように思う。しかしながら、この問題に関しては単に食べなければいいというものでもないだろう。私はこれからも鰻を食べ続けたい。だから鰻には絶滅してもらっては困る。そんな動機から鰻を取り巻く諸問題に関心を向ける者がいてもいいのではないかと思うのだ。

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